ラオスのラオ子。

美味しいものと音楽と、あたたかな手仕事と。青年海外協力隊2018年度3次隊コミュニティ開発隊員の活動記録兼ラオス情報。一時退避中につきラオ語講座絶賛開催中です。

ただいま、ラオス!

ສະບາຍດີ!

みなさんこんにちは、ラオスのラオ子です。3月22日に、荷造りについての思わせぶりな記事を更新してから半年が経ってしまいました。半年というのは、その記事を書いたことすら忘れるのにちょうど良い期間で、つまり私は3月にブログを更新したことすら忘れていたわけですが、なんとなんと、この度わたくし、ラオスに戻ることができました。

 

近況報告するにしても期間が空きすぎていて、何からどういう風に書き出したらスムーズに書けるのか考えているうちに入国時の隔離も終わってしまったわけなんですが、日本に帰ったところからサッとおさらいしておきたいと思います。

 

2020年3月 ラオスから日本へ緊急退避

 
その時に書いた記事がこちらです。「明日の晩の便で帰ります!」と突然連絡が来て、家の荷物も頭の中もまともに整理できないまま帰ったのがもう1年半も前の話になるんですね。ここから今に至るまで、楽しいこともたくさんあったし、活動もいくつかしたんですが、それでもやっぱり私にとっては「空白の期間」です。これはまた別の機会に書きたいと思います。
 

2020年7月、11月 隊員続けるか、待つか、やめるか

緊急帰国した当初は「まあ3か月程度やろ~」とお気軽な気持ちでいたのですが、そこから数か月で世界はこんなことになってしまい、私たちは2020年7月に1度目の選択を迫られました。そして11月末にも、第2回目の選択の時がきました。その選択の内容がどんなだったかは下の記事にありますが、簡潔に言うと、
 
1. 再派遣され次第すぐに行けるように隊員を続けるかわりに、任期が減る
2. 「特別登録」という制度を利用し、一旦隊員をやめるかわりに任期が減らない
3. 完全に隊員をやめる
 
です。私は、7月の段階では1を、11月末に2を選んで、特別登録隊員になって再派遣を待つことになりました。
 
 
その時の葛藤はここに書き溜めてあります。今読み直してしみじみ思うのですが、あえて思ったままの言葉で書くと、病んでますね(笑)
 
そして12月初旬に、それまでキープしてもらっていた任地の家をオンライン引き払いにより手放し、私の荷物は全部隊員ドミトリーに移されることになりました。
 
ちなみにこの年の年越しは、神社で高校生・大学生の奉仕者に混じって縁起物や甘酒を売っていました。高校生のころから、実家に居るときはだいたいお世話になっている神社です。13年ぐらい前に初めて奉仕してから、今年で6回目でしょうか。いつもお世話になっております。
1月1日は大雪。でも、そのせいだとは言い難いお客さんの少なさで、いつもは参道の外までずらーーーっと並ぶ参拝者の列が、今年は1度もできなかったのを見て、ああやっぱり世の中は変わってしまったんだなあと感じました。

2021年2月 仕事開始

私は特別登録隊員になったので、再派遣の目途が立ったら自分で時期を選んで派遣してもらうことができます。10月から11月に行われるハンディクラフトフェスティバルに、あとから来る隊員さんたちと一緒に参加したい!という一番大きな目標を達成すべく(伏線ではない)、後片付け・引継ぎなども含めて12月に帰国することにし、そこから逆算して、再派遣してもらえる派遣日数180日をすべて使って、6月にラオスに行けるように手続きをすすめていきました。
 
そして、そろそろ私の口座が限界を迎え、絞っても雫の1滴すら落ちなくなってきたので(笑)、またドラッグストアで働くことに。大学のころバイト先の先輩に脅されて登録販売者を取ったことを、こんなに感謝する日が来るなんて・・・。
 
大学4年間+カンボジアから戻ってからの2年間(バイト・パート)1社目
協力隊受かってからの1年間(パート) 2社目
2021年2月から(派遣社員) 3社目
 
と、色んな雇用形態で色んなドラッグを渡り歩く謎の人生です。
楽しいし、大好きな仕事です。
 
入社当時は、6月には旅立つ予定でしたが、4月の旧正月の後にラオス国内の陽性者数が増えてしまい、ロックダウンがなかなか解除されず、パスポートが作れない、配属先との手続き、滞在許可や入国許可などの手続きが進められないなど、あらゆる障壁が立ちはだかることとなりました。そして、ロックダウンが解除され、最短でこれらの手続きを進めてもらっているあいだにワクチンを打ち、なんとか出国できたのが9月11日でした。
 

2021年9月 日本→ラオス

パスポートが作れて、配属先との手続きや、日本側・ラオス側のあらゆる許可がもらえたとしても、正直ラオスについてパスポートにハンコを貰うまでは安心できません。クアラルンプール⇔ラオス間は毎日運航されるわけではないので、もし何か起きて乗り継ぎができなかったらクアラルンプールでのリアルターミナルが始まりますし、日本・ラオスでのPCR検査で万が一のことがあったらもう大変です。一緒に渡航する隊員同士も一定の距離を保って、厳戒態勢でラオスに向かいました。

 

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まずは渡航の際の日程から。

 

1日目 実家→成田(PCR検査)
2日目 成田→クアラルンプール(トランジットホテル泊)
3日目 クアラルンプール→ビエンチャン(隔離ホテルへ)
 
前回の渡航では、朝7時に羽田集合で夜にはラオス!というスケジュールでしたが、2泊3日ともなるととても遠くの国に行くような感じがしました。
 
最後の日本メシは、出発当日朝9時、羽田のマクド。他の隊員が「チキンクリスプがうまいっス」と教えてくれて、私はファミチキ的なものが出てくると勘違いして月見バーガーと一緒に注文したのですが、しっかりバンズに挟まれたバーガーが出てきてちょっと動揺しました。朝からバンズ2つはキツかったです。
 
チェックイン時には、陰性証明、ワクチン接種証明、入国許可証など、何種類かの提示が求められました。ちゃんと全部印刷してきたかここで突然不安になり始めるのは、ちゃんと準備できてなかった証拠ですね。
 

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そして横1列誰も座っていないガラガラのANAで、台風14号に軽くご挨拶しながらクアラルンプールに到着しました。ここでは入国せずに、トランジットホテルに1泊して翌日のフライトでビエンチャンに行くことになります。

 

飛行機降りたところに「ビエンチャン行き」のボードを持った方が待っていてくれたのに、「あれって今日のトランジットの人ってことかなー?」という感じで全員スルーしてしまいました。その後、どうしていいか分からなくなってうろうろしていたところにこのスタッフさんが話しかけてくれてようやく手続きがすすめられました。(お兄さんごめん)チェックインカウンターでも、成田と同じように何種類かの書類の提示が必要で、手続きにも結構時間がかかりました。

 

 クアラルンプールに来て驚いたのですが・・・本当に人が居ない!免税店も閉まりまくっている!スタバに行ってマレーシア限定グッズ買いたかったのに、もちろん閉まっている!レストランは数店舗あいていましたが、検温、記名、ワクチン接種証明書の提示が義務付けられていて、そう思うと成田空港はゆるかったなあと思いました。

 

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そしていよいよラオスへ。隣の席こそ誰も乗らなかったものの、成田ーKL便より混んでいたので、二重マスク、消毒しまくり、トイレはなるべく使わない、の厳戒態勢で爆睡しました。

 

そしてラオス到着後は、空港内に設営された会場にて、流れるように2回目のPCR検査。感傷に浸るまもなくブースの椅子に案内され、口腔内を綿棒でゴシゴシ。「はぁ終わった・・・」と思ったら「上向いて!次は鼻ね」と指示され、成田のときの優しい検査とは比にならない痛さに何度かえづきながら無事検査を終えました。

 

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そしてついに!この1年半、何度夢に見たかわからないラオスのハンコが!緑のパスポートに押されました!
 
この看板を見て、じわーっと目頭が熱くなりました。ラオス語で書いてあるのはもちろん、「ようこそラオスへ」。その下には、いちばんかっこいい角度のタートルアン。ブッダの遺物が塔内に遺されているといわれている、黄金に輝く仏塔は、国章にも描かれているラオス仏教のメッカ(という言葉をここで使うのは適切かどうか分かりませんが)です。クメール様式の寺院が改修されたものらしく、私がここに来るきっかけをくれたシェムリアップと地続きになっていることを感じられて、ことばにできないパワーを貰える場所でもあります。
 
タートルアン祭 - ラオスのラオ子。(ここに黄金に輝いてる写真のせてます!) 

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ああーこの景色!京都市のみなさん、旧型の市バスはビエンチャンでまだまだ元気に走ってますよー!!

みんなでセルフィする余裕もなく、書類の記入、隔離ホテルまでのバス代の支払いなどの手続き地獄を抜けたあと、隔離者用のバスでそのままホテルに向かい、「14日後ね~」とあいさつして各々の部屋へ。
そこからの14日間、会うのは検温に来てくれるホテルのスタッフだけ。食事は毎食、廊下のテーブルに置かれ、アメニティの受け取りやランドリーの受け渡しもそのテーブルで行うので、人と接触する機会はほぼありません。ときおり届くありがたい差し入れも、フロントスタッフが受け取って、それを部屋まで持ってきてくれるし(差し入れ頂いた方々、その節は本当にありがとうございました)、ホテルのご飯に飽きて時折頼んだフードパンダも同様に、金銭授受も含めてすべてホテルのスタッフがやってくれます。
 

突然のクラスター

この隔離期間中に、「絶望」というちょっとばかり強めの言葉がぴったりなクラスターが起きてしまいました。市内の縫製工場で200人を超える大規模なクラスター、それに続く感染拡大を受けて、ビエンチャン市は即座にロックダウン。すぐに緩和されましたが、一時は「スーパー、小売店などもすべて営業停止」というかなり厳格なロックダウンでした。あちこちに検問が設置され、県境も封鎖。

 

発令されたときは「9月30日まで」という期限つきでしたが、私は26日に隔離が終わって29日に赴任するはずだったので、この時点で1日のロスになります。日に日に膨らんでいく感染者数、日に日に増えていくレッドゾーン、どの情報も精神衛生上良いものではありませんでした。

 

オンラインでの赴任後ブリーフィングや面談で人と話す機会はあるにしても、ごく短時間の事務的なもの。隔離中で誰とも話せないことや、ここまで来ても何もできないのかという悔しさ、もしかしたら私はビエンチャン県に赴任できないまま任期を終えるのではないかという絶望感、もしロックダウンしたら私は首都のホテルで2か月も何をすればいいんだという焦り、色んなことが頭の中を回って、ものすごく無気力になっていました。

 

そんな中、2週間の生活のリズムを保てたのは、ラオ語のオンライン授業を毎日受けられたからでした。隔離序盤は予約やシステムの関係で受けられなかったのですが、途中から受けられるだけ受けて、時間でいうと31コマ(15.5時間)をオンライン授業にあてました。授業時間だけでいうとたいしたことありませんが、要領が悪いので予習にも復習にも倍以上の時間がかかります。ラオ語に熱中している間は、時間が経つことを肯定的に考えられたというか、自分が正く過ごせていることに安心できるというか、とにかく隔離期間中の精神安定剤になりました。なにより、日本にいるラオ人の先生、ラオスに居るラオ人の先生の二人から授業を受けられたので、色々な情報も得られたし、生活面でのtipsもあれこれ教えてもらえたし、単にラオ語の語学力が鍛えられるだけではなく、それ以上の生きた情報も得られました。先生がたはもう何年も二本松訓練所でラオ語を教えておられるので、私たちがおかれた状況での悔しさも、ラオ語の読み書きが全くできない状態で入所してからの成長も、全部理解してくれます。それゆえの優しさも気遣いも全部ありがたかったし、たとえオンラインであっても、先生たちと過ごした時間に支えられて、14日間の隔離を終えたと思っています。

 

隔離終了後

を書こうと思ったのですが、長くなってしまうので一旦ここで終わりたいと思います。まだまだ何がどうなるかわからない隊員生活ですが、フードパンダで美味しいものを食べながら、少しでも楽しい事を考えながら、自分をわくわくさせながら、任地に行けるのを待ちたいと思います。

 

ではまた次回!そーくでぃーどぅー!