ラオスのラオ子。

美味しいものと音楽と、あたたかな手仕事と。青年海外協力隊2018年度3次隊コミュニティ開発隊員の活動記録兼ラオス情報。一時退避中につきラオ語講座絶賛開催中です。

第2回原爆展に参加して、「平和って何?」を考えた

さばいでぃー!

皆さんこんにちは。ラオスのラオ子です。

 

今日は、平成最後の日にあわせて投稿できたらと思っていた内容を更新します。

 

 

ピーマイ(旧正月)が明けた翌週の4月24日、やっとこさ正月ムードから抜け出しつつあるビエンチャン特別市にて、先輩隊員の企画で「第2回 原爆展」が開催されました。

 

この記事を書く目的として、私がラオスでどんなことをしているか知ってもらいたいというのはもちろんですが、現在いろんな国でそれぞれの活動を頑張っている同期の皆や他の隊次の隊員の皆さんに、活動”+α”の部分を知ってもらって、この活動を広げていきたいと思っています。いつも通りあちこちに蛇足が多い文ですができれば最後までお付き合いください。

 

 

10歳の私「広島の原爆の資料館、怖い。」

 小学3年生の頃、合唱団西日本合唱祭で広島に行く機会を頂いたときに、特に事前学習も無いまま入った資料館で感じた事です。

その時丁度夏休みで、じりじりと焼け付くような暑さでした。教科書や資料集で見たことのある建物に銅像、そして色とりどりの千羽鶴。街中の路面電車はビルとビルの間を窮屈そうに走っているように見えるのに、その場所だけはがらんとしていて、でも張り詰めたような空気で、ここは何か「違う」んだなあと感じました。 

資料館の中は、「怖い」でいっぱいでした。被ばくした人たちのケロイド状になった皮膚を再現した人形。熱で曲がったぐにゃぐにゃの展示物。焼けただれた人の写真、絵、そして大きなジオラマの真上に不気味に垂れ下がる赤い塊。薄暗くて静かな資料館を出て、近くを流れる川を見た時、「ここにあのドロドロの人が飛び込んで行ったんかなあ」と考え、更にその「怖い」という気持ちが増しました。

その話を近所のおじさんにしたところ、「熱い思いして亡くなってやーる人がいっぱいいっぱい居るんや。今も苦しんでる人がぎょーさんやぁる。『怖い』なんて言うたらアカン。」と言われました。

そうか、大人が言うんだからきっとそうなんだ。じゃあ、あの場所は、私が見たものは、私が感じた気持ちはー・・・。そして、あの時の気持ちに何という名前をつけていいのかさっぱり分からなくなった結果、資料の数々に対して感じた「怖い」という気持ちには、蓋をしなければいけないのだと思いました。

 

その5年後、今度は、イタリアの姉妹都市に行きました。現地の音大のオーケストラやソリストと2週間ほど練習を重ねて、「Undici Zero Due(11:02)」という現地の脚本家の創作オペラを演じるためです。11時02分、人類史上実戦で最後に使われた原子爆弾「ファットマン」が長崎県長崎市に投下された時間。それまでいつもと変わらない日常を送っていた子どもたちが、原爆により一瞬で命を奪われ、その魂は悲しい歌と共に海を渡り、平和を繋いでいくー・・・というような物語だったと思われます。(台本やあらすじの日本語訳が無かったので細かいニュアンスは違うかもしれません。)

 イタリア語も英語も、さっぱり分からないので、現地の人たちとは簡単な挨拶程度のコミュニケーションしかできませんでしたが、オペラが終わったあと浴衣を着て灯篭流しをして、日本の歌を聴いてもらって、皆で歌って、初めて経験した外国の人たちとの非言語のやりとりは、それまで私の中にあった音楽というもの概念を簡単に壊してくれた気がしました。その後スイスやドイツでも演奏会を経験して、確実に今の私を作ってくれた切っ掛けになってくれたし、言葉がわからなくてもこうやって共有していく術もあるんだということを教えてもらった、私の人生に強烈な点を打った活動だったと思います。

 

それでも、役を演じている間も、あの日広島で見たものを思い出して「怖い」という気持ちに襲われていました。

浴衣を着た私たち日本人の子役は、劇の中盤、激しい音・真っ赤な照明の中、床に突っ伏しました。次の曲に入ったら立ち上がってあそこに並びに行って・・・。そう考えながら冷たい床で”次”を待つ。その間、照明が真っ青に変わり、”死の灰”が天井から降り注ぎます。

 もしあれがオーケストラの音ではなく本当の爆音だったら私たちは一瞬でこの世界からいなくなっている。”次”は、無い。もし今ここに原爆が落ちたら、ちょっと好きになり始めた、教会の鐘の音が響き渡るこの街から、数十万人の人が一瞬で亡くなって、生き延びることが出来たとしてもその後何十年も、苦しむことになる。そしてその悲しみは一生消えない。

 

―やっぱり原爆は、怖い。

 

本番中に広島での記憶が蘇るぐらい、あの時の事が頭に残っていたのでした。

 

この「怖い」がずっと引っかかっていた私。どこに行っても「負の遺産」に触れることができず、前に住んでいたカンボジアの「虐殺博物館」と「キリングフィールド」にようやく行くことができたのも、カンボジアとの関わりを持ち始めてから7年が経った去年のことでした。 

 

虐殺博物館とキリングフィールドについてはこの記事で少し触れています。

 

そして、ここビエンカムでの活動を始めてしばらく経ったある日、先輩隊員から今回の「第2回原爆展」のボランティア募集のお知らせが届きました。迷わず、「参加させてください」とお返事しました。自分があの時自分の中にとじ込めてしまった「怖い」を、先輩はどう感じて、どう学んできたんだろう。そしてそれを、どんな形にして異国の高校生に伝えるんだろう。それらを知るために、自分も運営に関わって、近くで見させてもらおう。そして私も原爆についてもっと知ろう、学ぼう、考えよう。私の職種であるコミュニティ開発とは直接関係のないフィールドであっても、2年という限りある時間の中で、経験できることはできるだけしていこう。そんな気持ちで、参加を決めました。

 

準備

第2回原爆展の呼びかけがあったのは、3月下旬のことでした。今回集まった8人中5人が私と同じ2018-3次隊(現在ラオスに着任している一番新しい隊次)で、もちろん原爆展に参加するのも初めてです。

第1回原爆展を同じ先輩がオーガナイズされていて、原爆に関する絵本や資料、必要備品などなど、ある程度は前回分を使って今回のイベントを組み立てられたこともあって、皆で集まって検討・相談する事は当日の役割分担以外ほぼありませんでした。

そして、イベントのために作られたLINEグループに次々資料を共有してくださったおかげで、私たち新規隊員も上京までにイベントの大部分を把握できました。

イベント前々日に、今回のイベントに参加する隊員が地方から集まり、生徒に渡す資料などを準備、前日は買い出しと会場の設営と大まかな流れの確認などを行い、本番当日を迎えました。

 

第2回原爆展

ここからは当日のプログラム通りに、内容と所感を書いていきたいと思います。

挨拶

 

まずはオーガナイザーの先輩隊員の挨拶から。先輩隊員のバックグラウンドや、このイベントを開催する目的、皆に知ってもらいたいことなどを最初にお話されていました。

今回集まってくれたのは、5・4・3・4制の義務教育期間の、中・高等部の1年生、3年生、そして7年生の約115名。日本でいう小学6年生、中学2年生、高校3年生です。私は教育関係の隊員ではないので、こうやって学校にお邪魔できるのも貴重な体験です。

今回対象にしたのは日本語の授業を受けている生徒さんたちなので、もちろん日本語自体にも興味を持ってくれています。JOCVが一人ずつ前で自己紹介すると、私たちの名前をみんな口に出して繰り返してくれたのが嬉しかったです。第1回のアンケートで「日本語が聴きたかった」という意見をいただいていたこともあり、今回は先輩隊員の日本語+現地の先生のラオ語の2言語での司会進行でイベントが進められました。

 

アイスブレイク

 

次は、私と同期隊員が担当させてもらったアイスブレイク。日本語を勉強している生徒さんを対象にしたイベントということで、「ສັນຕິພາບ(サンティパープ=平和)って日本語で何だか知ってる?」「”へいわ”を日本語(ひらがな、漢字)で書いてみよう!」という内容から発展させ、「この絵は”平和”かな?」「なんでそう思うのかな?」と、皆で”平和”について考える時間を作りました。

ここで、私たちから「正解!」「それは違うね」「平和っていうのはね、」と具体的に話をすることはありません。この後の内容に自分たちで結び付けてもらうためのアイスブレイクですので、ここで問いかけを完結させることが目的ではないからです。この後の話を聞きながら「じゃあこれはどうだろう」と考えてもらうためのきっかけづくりが出来れば大成功!

 

と、偉そうに言ってみましたが、シナリオはほとんど先輩が作ってくださったもの。私たちは、実際生徒さんにインタビューするときにあったらいいなと思うラオ語を前日の打ち合わせのあとに少し足して、本番に臨みました。

初めの挨拶もしっかりこちらを見て聴いてくれた皆なので、私が壇上にあがって「キンカオレオボー?!(ごはん食べたー?!)」と突然ラオス流の挨拶をしたら「レーーーオ!!」と元気に答えてくれて、良い雰囲気のまま、わいわいアイスブレイクを終えることができました。

 

イントロダクション

 

そしてここからついに本題。先輩隊員からの、広島と長崎についてのお話です。

 

原爆はいつ・どこに投下されたのか、なぜ広島と長崎に投下されたのか。

 

原爆がもたらす「熱線」「爆風」「放射線」の3つがどれだけの命を奪い、苦しめたか。

 

今、広島と長崎の街はどうなっているか。

 

今、世界にはどれくらい核兵器が存在しているか。

 

ラオスには、戦争/内戦でどんな問題が残っているか。

 

「折り鶴」「千羽鶴」に込められている意味とは。

 

次のプログラムの内容を補完し、かつ自分たちの国の事にも絡めることで、当事者意識を持ってもらえるような内容でした。

 

 

クイズ形式で生徒たちの興味を引きながらも、淡々と、毅然とした態度で、伝えたい事実を伝えていかれる先輩隊員。「先生」として普段から活動されている先輩は、約115名の前で壇上に立って話していると思えないぐらい、生徒さんとコミュニケーションをとられていて、私はもう、「すごい」と「かっこええ」以外の感想が出ませんでした。

 

提示されているスライドにかじりついて話を聞く生徒さんたちは、熱線・爆風で亡くなられた方の写真を見て一瞬「うわぁ」と目を背ける場面もありました。私が感じた「怖い」と似ているかもしれません。その写真は、日本でいう小学6年生の児童向けに選んだもの。教科書やテレビで見慣れてしまっている私たちにはそうでなくても、会場の雰囲気を一瞬で変える力を変えてしまいました。それから生徒さんたちは、それまで以上に先輩隊員の話とスライドにかじりつき、手元の資料を読んでまわりの生徒と思ったことを共有しながらイントロダクションを聞いてくれました。

 

絵本朗読

 

イントロダクションの後は、生徒による「おりづるの旅 さだこの祈りをのせて」の朗読です。現地語で朗読してくれたのは6人の生徒さんたち。みんな堂々と朗読してくれました。

 

この絵本の翻訳も協力隊の先輩方によるもの。結構ボリュームのある物語なので、いくつかのパートに分けて数名で翻訳作業されたのですが、「頻出単語のリスト」を作って単語を統一する作業が必要になったり、表現を合わせたり、話を聞いただけでも「大変だ・・・(わたしにはできない)」と思うような途方もない作業。それを、代表者の生徒さんたちが何度も練習して読んでくれるのは、作業に関わっていなかった私でも、嬉しい。とっっっても嬉しい。

 

折り鶴ワークショップ

 

「絵本で出てきた”折り鶴”を皆で折ろう!」ということで、きれいな千代紙を皆に配って、折り鶴のワークショップをしました。途中で次の工程を聞かれると、案外難しいですね・・・。一緒に折り鶴の折り方のプリントを見ながら折りました。

 

羽部分フルオープンタイプの鶴、足が生えた鶴など、個性豊かな鶴を折る子たちも居ましたが、なんだって、ぼーぺんにゃん(大丈夫)。折り鶴や千羽鶴の、背景、意味を知った上で、この文化に触れるということそのものが、なにより大切なのです。

 

現地語学訓練中にも高校に行って折り鶴を折る機会がありましたが、あの時よりもちゃんとコミュニケーションが取れている自分に気づいて、少し嬉しい気持ちになりました。「サダコは何羽折りたかったんだっけ?」「1000羽」「折れる?」「できないよ、多すぎるよ」なんて話もしながら、生徒さんたちとワークショップの時間を楽しみました。

 

写真撮影

 

最後は記念撮影。みんなで折り鶴を持って写真撮影。前に全員集合してもらうと、改めて、こんなにたくさんの人が来てくれたんだなあ・・・と。協力してくださった高校の先生方にも感謝です。ありがとうございました。

 

アンケート・絵馬記入

 

終わった後は絵馬とアンケートを記入してもらい、書けた人から解散でした。絵馬はこれからしばらく学校に掲示してもらいます。アイスブレイクで一緒に勉強した「平和」を早速書いてもらえました。

 

 

書いてもらった絵馬はボードに全部貼って、日本語教室にしばらく掲示してもらいます。 びっちり数行に渡って気持ちを書いてくれた生徒さんもいれば、シンプルに「戦争をしてはいけない」と書いてくれた生徒さんも居て。アンケートには、「毎年開催してほしい」という嬉しい言葉も見られ、集計中まで幸せな気持ちにさせてもらいました。

 

振り返り

この原爆展に参加するには任地での活動を休む必要があったため、上司に休みが欲しいと言ったところ、快諾してもらうことができました。まだ局でも何も出来ていないのに、大変ありがたいことです。そして、私は皆の前に立ってアイスブレイクの進行をする役を貰ったので、先輩隊員が作ってくださったシナリオを任地で事前に読んで、活動先の同僚に発音のチェックをしてもらっていました。

さきほど紹介した通り、アイスブレイクの内容は「平和って何?」でした。生徒たちと共に、平和とは何か、色々な絵を見て一緒に考えてもらうという趣旨のものですが、この原稿を読み終えた後に同僚から「で、平和って何??ラオ子は平和って何だと思うの??」と聞かれて、私は何も答えられませんでした。

そんな人が前に立って話していいのか??ともやもやしながら、せっかく頂いた役なので楽しくやらせてもらいましたが、それから原爆展までの間、実際「平和」がどういう状態で、どうやったら作れるのかを考えて、何も出てこなくて、この問いの正解はわからないまま。

でも、先輩のイントロダクションの原稿に「考え続けることが大切」という言葉を見つけて、そうか、じゃあ私も、わかんないから考え続けよう、そして皆にも考え続けてもらおう、という気持ちで臨みました。

 

「平和って何?」という問いと同じぐらい、このイベントの難しさを感じたのが、「歴史を伝える」という事自体が孕んでいる様々な問題。現在核を保有している国や、第2次世界大戦で日本の敵国だった国、ラオスにたくさんの不発弾を残した国、どれも事実として「ある」ことなのですが、それを「悪」だと伝えてしまうのは大変危険なこと。日本には日本の、ラオスにはラオスの、そしてそれぞれ国レベルから個人レベルまで、様々なルーツやバックグラウンドがあり、それを傷つけたり、否定することは、私たちの目標とするところではありません。

まだまだこれから、社会のことを学んでいく生徒さんたちに、「草の根外交官」とも呼ばれる私たち青年海外協力隊からどう伝えればいいかというのは、先輩も非常に悩まれたところだと思います。何も伝えなければ、このイベント自体のメッセージ性が薄れてしまうし、かといって偏った思想で気持ちを煽るようなことは、してはいけない。

・・・と、色々考えると、「ほどよく」「的確に」そして「ニュートラルに」伝える事は、かなり難しいと思いました。 

 

まとまらないまとめ 、原爆はやっぱり「怖い」

日本に落とされた2発の原子爆弾は、一瞬で何十万の命を奪い、その後も体の中に残って命を蝕み続け、今も苦しんでいる方がいらっしゃいます。どんな理由で投下されたとか、結果どうだったとか、そういう話では折り合いがつかないような出来事が、たった数日のあいだに数十万も起きたのです。未来永劫使われるべきではなく、そして新しく作られるべきでもありません。

 

 

一方、ラオスは、戦争や内戦の爪痕が「貧困」や「不発弾」というキーワードと共にまだまだ残っている国です。戦争当時、ラオス王国の国民1人あたり1トンの爆弾が落とされたとされていて、未だのその1~3割が地中に残っていると言われています。被害のひどかった旧ホーチミンルートを中心に、その地に住む住民、特に農業従事者が危険に晒されているだけでなく、 不幸にもクラスター弾の子爆弾がラオスの遊び「ペタンク」で使われる鉄球に似ていることで、子どもの手足や命そのものが奪われる事故も起き続けています。「何個の不発弾が処理できたか」ではなく、「100%クリーンな土地になったか」が重要であり、本当に平和に暮らせるには、長い長い道のりと言えそうです。

 

今回はそのきっかけづくりを協力隊の有志一同で行いましたが、どこにでも、「平和」を考えるきっかけになるものはあります。 そして、自分の国だけではなく、どの国の情報もすぐに手に入るのが、私たちが生きている「グローバルな社会」です。だからこそ、私自身、今回のことで20年持ち続けてきた「怖い」の気持ちを完結させずに考え続けたいし、このイベントに参加してくれた生徒さんたちにも、この日共有したことを考え続けてほしいと思います。

 

今回生徒さんに読んでもらったサダコの絵本は、折り鶴が平和の象徴となって世界を旅するお話ですが、まさにその旅は今も続いているんだと思います。だから、この日のワークショップで作った折り鶴も、ここで終わりにするのではなく、家に持って帰ってほんの少しでいいから家族に話してほしい。これからしばらく日本語教室に展示される、皆が書いてくれた絵馬の平和への願いを共有・共感し、話し合って、このイベントの事を少しでも思い出してほしい。「イイネ!」ボタンには無い、小さいけど大きな力となって、水面に落ちる水滴のように、波になって広がっていくきっかけのひとつになってほしい。カオス理論のバタフライエフェクトのように、蝶のはばたきが地球の反対で竜巻になることはなくても、私たちは誰しも科学で証明できない「心」を持っていて、わたしたちの未来を変えていく力になるはず。

 

さいごに。

 

 今回のイベントが、これからのラオスを拓き、支えていく学生さんたちに、広島・長崎のことを通じて平和を考え、ラオスの事に関心を向けて「当事者」になってもらう一助になれば、それより嬉しいことはありません。また、そうして「じぶんごと」を繋いでいくきっかけになれるのであれば、自分も積極的に機会づくりをしていきたいと思います。

 

また、この記事を見て少しでも興味を持ってくださった他国の隊員の方がいらっしゃいましたら、私との面識の有無関係なく、是非コメント欄やSNSで連絡いただけたら嬉しいです。今回使った資料などの共有の許可を頂いていますので、隊員ネットワークで水平展開していけたら最高だなって思ってます。ご連絡お待ちしてます!

 

皆のブログ

www.laoko.net